はじまりの季節 — 第20話
【婚活・初デート】服装とお会計。男の葛藤と正解|オソコイ 30代の恋愛体験ストーリー
主人公: 35歳 / 品質管理(メーカー)
第一章:脳内の大論争
カフェでの会話は、思いのほか上手くいっていた。 マニュアルを捨てて素直に「緊張している」と伝えたことで、お互いに肩の力が抜け、趣味や休日の過ごし方について自然に笑い合えるようになっていたのだ。
しかし、グラスの氷がすっかり溶けきり、そろそろ店を出る空気が漂い始めた頃、俺の脳内には新たな、そして最大の警報が鳴り響いていた。
(お会計だ。どうする。どう動くのが正解なんだ?)
婚活において「初デートのお会計は男が全額奢るべきか、割り勘か」という問題は、ネット上で永遠に決着のつかない宗教戦争のようなものだ。 「男が払って当然」「割り勘を提案されたら即なし判定」という女性側の意見もあれば、「対等なのだから割り勘が常識」という男性側の意見もある。
もちろん、俺は最初から全額払うつもりで多めに現金を下ろしてきていた。 問題は「どうやってスマートに払うか」だ。
伝票をさっと取って、相手がトイレに行っている間に済ませる? いや、そんなタイミングはなかった。 なら、レジでサッと財布を出して「ここは俺が」と言うのか? でも、もし相手が「私も出します」と強く主張してきたらどうする?
頭の中でシミュレーションを繰り返せば繰り返すほど、会話は完全に上の空になっていた。
第二章:レジ前の挙動不審
「そろそろ、出ましょうか」
彼女の言葉に、俺はビクッと肩を震わせた。 「あ、はい! そうですね」
立ち上がり、テーブルの端に置かれていたバインダー(伝票)に手を伸ばそうとした瞬間、彼女の手も同時に伝票に伸びた。
「あ…」 「あ…」
指先が触れそうになり、俺は慌てて手を引っ込めてしまった。結果的に、彼女が伝票を持つ形になってしまう。
(バカか俺は! なんで譲ってるんだ!)
彼女はそのままレジへと向かい、バッグの中から財布を取り出し始めた。 「いくらですか?」と聞かれ、俺は完全にパニックに陥った。
「えっと、あ、半分出しますか? いや、違う、俺が出します! 出させてください!」
声がひっくり返っていた。カフェの店員が少し驚いたような顔でこちらを見ている。 彼女は財布を開けたまま、ポカンとしていた。
「いや、あの、今日は俺から誘ったので。本当に大丈夫です」 俺は震える手で財布から一万円札を引き抜き、無理やりトレイに押し付けた。
彼女は少し申し訳なさそうな顔で「すみません、ごちそうさまです。ありがとうございます」と頭を下げた。
第三章:自己嫌悪と救い
店を出て、駅の改札まで歩く道のりは、行きとは比べ物にならないくらい重苦しい空気だった。 さっきまでの和やかな会話が嘘のようだ。
(終わった。完全に引かれた。あんなダサい払い方があるか?)
「半分出しますか」と言いかけてからの「俺が出します」。優柔不断で、挙動不審で、全く頼りがいがない。スマートさの欠片もない。 ネットの恋愛指南記事なら「絶対にやってはいけないNG行動ワースト1」に認定されるだろう。
改札の前で「今日はありがとうございました」と軽く挨拶を交わし、彼女は電車に乗っていった。 その後ろ姿を見送りながら、俺は深い自己嫌悪の海に沈んでいた。35歳にもなって、コーヒーとケーキの代金すらスマートに払えない自分が情けなかった。
帰りの電車の中、スマホが震えた。彼女からのLINEだ。 きっと「今日はおごっていただきありがとうございました。でも、もうお会いすることはないと思います」というお祈りメールだろう。
恐る恐る画面を開く。
『今日はありがとうございました! ケーキ、すごく美味しかったです😋 お会計、気を使わせてしまってすみません。でもごちそうしていただいて嬉しかったです。 次は私が美味しいお店を探してごちそうするので、またご飯に行きませんか?』
画面の文字を、俺は三回読み直した。 肩から、スッと何かが抜け落ちていくのを感じた。
エピローグ
「次は私がごちそうする」。 その言葉が本当かどうかなんて、どうでもよかった。俺の不器用でダサい振る舞いを、彼女は「気を使わせてしまった」と受け取り、次に繋がる言葉をくれたのだ。
ネットの論争や「スマートなマニュアル」なんて、本当は必要なかったのかもしれない。 不器用でも誠実に払おうとする姿勢と、それに対して素直に「ありがとう」と言ってくれる相手がいること。
それだけで、こんなにも救われた気持ちになれるのだと、35歳にして初めて知った。
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