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はじまりの季節 — 第1話

最初のメッセージ

8分

主人公: 35歳 / システムエンジニア

出会いマッチングアプリ最初の一歩

木曜日の午後、オフィスのエアコンはいつもより冷えていた。カタカタとキーボードを叩く音だけが響くサーバー室の片隅で、健二は画面のコードを見つめていた。今年で三十五歳になる。システムエンジニアとして働き始めて十数年、バグを見つけることやシステムの構築には慣れていたが、自分の人生のバグを修正する方法だけは、どこを探しても見つからなかった。

「坂本さん、これ、今週中にやっといてほしいんですけど」 後輩のタカシが缶コーヒーを健二のデスクに置きながら、軽い調子で話しかけてきた。タカシは二十代後半で、コミュニケーション能力が高く、誰とでもすぐに打ち解けるタイプだった。先月もマッチングアプリで知り合った女性と付き合い始めたと、嬉しそうに報告してきたばかりだ。 「へえ、ありがとな。……そういえば、そのアプリって、本当に人がいるのか?」 健二は、自分でも驚くほど唐突にそんな質問を口にしていた。タカシは少し目を丸くしたが、すぐに人懐っこい笑みを浮かべた。 「いますよ、めちゃくちゃたくさん。坂本さんもやってみたらどうですか? 意外と面白いですよ」 「まさか。俺みたいな、三十五まで一度も女性と付き合ったことがない男が登録したって、誰にも相手にされないだろ」 自嘲気味に笑う健二に、タカシは真面目な顔をして首を振った。 「そんなことないですよ。むしろ、真面目で誠実そうな人を探してる女性ってたくさんいますから。始めるのに遅いなんてこと、ないと思いますよ」

その一言が、帰りの電車の中でもずっと頭の奥にこびりついて離れなかった。窓ガラスに映る自分の顔は、ひどく疲れて見えた。三十五年間、何をしていたのだろう。勉強と仕事に追われ、気づけば周りは皆家庭を持ち、自分だけがぽつんと取り残されている。「自分には恋愛なんて向いていない」と諦めることで、傷つくことから逃げていただけではないのか。

アパートに帰り、冷えたコンビニ弁当を食べ終えた後、健二はスマホを見つめた。画面をスクロールし、アプリのダウンロードページを表示する。しかし、そこから指が動かない。インストールボタンを押すだけで、自分の何かが決定的に変わってしまうような、あるいは、惨めな現実を突きつけられるような恐怖があった。 結局、その夜はスマホを伏せて布団に入った。だが、天井を見つめていると、タカシの「始めるのに遅いなんてこと、ない」という言葉が、静かな部屋に何度も響くように感じられた。

翌週の週末、健二はついにアプリをダウンロードした。画面の指示に従い、プロフィールを作成していく。だが、最初の壁はすぐに現れた。自己紹介文をどう書けばいいのか、全く分からないのだ。 「趣味……」 健二の趣味は読書と、休日に少しプログラミングをすることだけだった。他の登録者のプロフィール例を見ると、「休日はカフェ巡りをしています」「フェスや旅行が大好きです」といったキラキラした言葉が並んでいる。自分とは住む世界が違うように思えた。 一度は「カフェ巡りと旅行が好きです」と嘘を書こうとキーボードに指を置いたが、すぐに消した。嘘をついて出会っても、いつか破綻する。健二は深くため息をつき、画面に向かって正直に言葉を打ち込み始めた。

『はじめまして。都内でシステムエンジニアをしている健二と申します。三十五歳になります。仕事ばかりの毎日で、これまで女性とお付き合いをした経験がありません。趣味は読書で、休日は自宅で静かに過ごすことが多いです。不器用で言葉足らずなところがありますが、誠実に向き合いたいと思っています。よろしくお願いします』

書き終えた後、何度も読み返した。「恋愛経験がない」と書くのは、男としての市場価値を自ら下げる行為かもしれない。それでも、これが今の自分のありのままの姿だった。

プロフィールを登録すると、いくつかの「いいね」が届いた。多くは業者やサクラのように見えたが、その中に一人、落ち着いた雰囲気の女性がいた。名前は「ハル」。プロフィール写真には、少しはにかんだような笑顔の女性が写っており、趣味欄には「本を読むことと、美味しい緑茶を淹れること」と書かれていた。同年代の三十三歳だった。

健二は、彼女のプロフィールを見つめながら、心臓が大きく波打つのを感じた。メッセージを送るべきか、それとも無視するべきか。 「どうせ返信なんて来ないさ」 そう自分に言い聞かせながらも、キーボードを叩く指は少し震えていた。 『はじめまして、健二と申します。ハルさんのプロフィールを拝見し、私も本を読むことが好きなので、お話ししてみたいと思いメッセージを送りました。最近はどんな本を読まれていますか?』 短く、無難な文章。何度も書き直し、ようやく完成した一通だった。送信ボタンの上に指を置く。たった一タップの動作が、まるで重い鉄の扉を押し開けるかのように感じられた。

画面を軽く叩く。メッセージは送信され、健二はすぐにスマホを裏返して机の上に置いた。 心臓の音が、静まり返った部屋にやけに大きく響いていた。数分待っても、当然ながら反応はない。「やっぱり送らなければよかった」という後悔と恥ずかしさが押し寄せてくる。健二はいたたまれなくなり、お風呂に入ってすべてを忘れようとした。

湯船に浸かりながら、天井の結露を見つめる。何をやっているんだろう、俺は。三十五にもなって、一通のメッセージでこんなにうろたえるなんて。

風呂から上がり、髪を乾かした健二は、寝室の机に置かれたスマホを手に取った。画面は暗いままだ。電源ボタンを押し、ロックを解除する。アプリのアイコンの右上に、赤い小さな数字の「1」が灯っていた。

健二は息を呑んだ。 画面を開くと、ハルからの返信メッセージが表示されていた。

『健二さん、はじめまして。メッセージありがとうございます。最近はミステリー小説をよく読んでいます。健二さんのプロフィールを見て、とても誠実そうな方だなと思ってお返事しました。不器用なんてとんでもないです。こちらこそ、よろしくお願いします』

視界がじんわりと温かくなるような感覚がした。胸の奥にたまっていた冷たい塊が、少しずつ溶けていくようだった。 三十五年間、誰も立ち入らなかった自分の世界に、小さな風が吹き込んだ瞬間だった。思ったより、世界は冷たくも、恐ろしくもなかったのかもしれない。健二はベッドの上に腰掛け、今度は震えない指で、次のメッセージを書き始めた。あたたかい返信のお礼と、彼女が読んでいる小説についての質問を。

あの日、あの重い扉を開くための最初の一歩は、本当に小さなスマートフォンの画面をタップすることだけだったのだ。