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はじまりの季節 — 第3話

雨の日の勇気

8分

主人公: 35歳 / 公務員

決意自分を変える最初の一歩

六月の終わりの木曜日、空はどんよりとした灰色の雲に覆われ、午後から激しい雨が降り続いていた。 役所の窓口業務を終えた和也は、重い足取りで最寄り駅の改札を出た。家路を急ぐ人々が傘を広げ、足早に通り過ぎていく。

駅のロータリーの片隅で、一人の女性が立ち往生しているのが見えた。 薄手のブラウスを着たその女性は、突然の豪雨に傘を持っていなかったらしく、濡れた肩をすくめながら困ったようにスマホの画面を見つめていた。和也の手元には、大きめの黒いビニール傘があった。

「あの、もしよかったら、この傘使ってください」 その一言が、喉の奥まで出かかっていた。だが、声にはならなかった。 「いきなり三十代半ばの男に声をかけられたら、不審に思うに決まっている」「どうせ親切の押し売りだと思われるだけだ」 頭の中で瞬時に言い訳が組み立てられ、和也の足は自動的に彼女の横を素通りしてしまった。駅ビルを出て冷たい雨の中に傘を広げたとき、激しい後悔が押し寄せてきた。

振り返ると、彼女はまだ雨宿りをしながら寒そうに腕を抱えていた。和也はもう一度戻る勇気も出せず、そのままうつむいて歩き出した。 「また何もできなかった」 その言葉が、雨音にかき消されながら心の中でリフレインしていた。

アパートに戻り、濡れたスーツを脱いでハンガーにかける。玄関に置いた革靴からは、湿った不快な匂いが漂っていた。 誰もいない静かなワンルームの部屋。聞こえるのは、窓を叩く激しい雨の音だけだった。 和也はシャワーを浴び、簡単な夕食を済ませると、ベッドの上に大の字になって天井を見つめた。

今年で三十五歳になった。公務員としての仕事は真面目にこなしてきたし、市民からの信頼もある。しかし、プライベートの履歴書は真っ白だった。これまで女性とまともに付き合ったことがない。かつては「いつか自然に出会いがあるだろう」と楽観視していたが、三十を過ぎ、気づけば周りは誰もいなくなっていた。 自分の何が悪いのかは分かっていた。先ほどの駅前のように、いつも傷つくことを恐れて、自分から関わろうとしなかったのだ。「傷つかないための壁」を自分の周りに高く積み上げ、その内側で「一人が気楽だから」と自分に嘘をつき続けてきた。

しかし、先ほどの女性の困った顔と、何もできなかった自分の情けない後ろ姿が頭から離れなかった。 「このままでいいわけがない」 胸の奥から、乾いた叫びのような、強い感情が湧き上がってきた。三十五年間、ずっと逃げ続けてきた。もし今、ここで立ち上がらなければ、自分は一生この薄暗い部屋で、一人で雨音を聞きながら年老いていくのだろう。

和也は起き上がり、棚からスマートフォンを手に取った。 以前、同僚たちが雑談で話していたマッチングアプリの名前を思い出す。検索窓にその名前を入力すると、青いアイコンのアプリが表示された。 「インストール」のボタンをタッチする。指先が微かに震えていた。ダウンロードを示すバーがゆっくりと伸びていくのを、和也は生唾を呑みながら見つめていた。

アプリが起動し、個人情報の入力と本人確認を進める。そして、プロフィールの作成画面に至った。 嘘で塗り固めた自分を作るのはやめようと決めていた。もしその不器用さを嫌う人がいるなら、それは仕方のないことだ。ありのままの自分を受け入れてくれる人とだけ、出会えればいい。

和也は、ゆっくりと言葉を選びながら自己紹介文を打ち込んでいった。

『はじめまして。都内で地方公務員として働いている和也と申します。今年で三十五歳になります。これまで仕事一筋で過ごしてきたこともあり、お恥ずかしい話ですが、女性とお付き合いをした経験がありません。そのため、人一倍不器用で、気の利いたデートコースなども提案できないかもしれません。それでも、お互いの価値観を大切にしながら、誠実に、ゆっくりと関係を築いていけたらと思っています。休日は美術館に行ったり、静かな公園を散歩したりするのが好きです。こんな私ですが、よろしくお願いいたします』

「付き合った経験がない」という一文を入力するとき、確かに迷いがあった。男としてのプライドが、それを隠せと囁いていた。しかし、送信ボタンを押した瞬間、不思議と胸が軽くなるのを感じた。自分の弱さを認めることで、ようやくスタートラインに立てたような気がしたのだ。

数日後、アプリを通じて一人の女性とマッチングした。彼女の名前は「恵」。同い年の三十五歳で、プロフィールには「お互いに自然体でいられるような、誠実な方と出会いたいです」と書かれていた。

恵から届いた最初のメッセージには、こう書かれていた。

『和也さん、マッチングありがとうございます。和也さんのプロフィールを読んで、とてもまっすぐで、嘘のない方だなと惹かれました。実は私も、仕事ばかりで恋愛から長く遠ざかっていたので、和也さんのメッセージを見て少し安心しました。私も散歩が好きなので、もしよければ色々お話しさせてください』

窓の外を見ると、数日前までの梅雨空が嘘のように晴れ渡り、夏の気配を感じる青空が広がっていた。 和也の頬を、静かな涙が伝い落ちた。それは自己嫌悪の涙ではなく、自分の不器用な一歩が、誰かに届いたという感動の涙だった。

駅前で、見知らぬ誰かに傘を差し出すことはできなかった。自分にはまだ、その勇気はなかったかもしれない。 けれど、自分の部屋で、震える指でスマートフォンの画面を開き、人生を変えるためのボタンを押すことはできた。 その小さな勇気が、確かに彼の世界を新しく塗り替え始めていた。和也は恵への返信を打ちながら、あの日降っていた激しい雨が、自分の人生のスタートラインを洗い流してくれたのだと感じていた。