はじまりの季節 — 第3話
【35歳・恋愛未経験からの決意】雨の日の勇気とアプリ登録|オソコイ 30代の恋愛体験ストーリー
主人公: 35歳 / 公務員
たった一言、「傘をどうぞ」と言えれば、何かが変わったのだろうか。 激しい雨が降り続く六月の夕暮れ、役所の窓口業務を終えた和也は、最寄り駅のロータリーで立ち往生する女性の横を、ただうつむいて素通りした。彼の手元には、大きめの黒いビニール傘があった。
薄手のブラウスを着て濡れた肩をすくめる彼女に、声をかけたい気持ちはあった。 「あの、もしよかったら使ってください」 その一言が喉の奥まで出かかっていたのに、声にはならなかった。「いきなり30代半ばの男に声をかけられたら、不審に思うに決まっている」「どうせ親切の押し売りだと思われるだけだ」 頭の中で瞬時に都合のいい言い訳が組み立てられ、和也の足は逃げるようにその場を離れてしまった。冷たい雨の中に自分の傘を広げたとき、胸を刺したのは、情けないほどの自己嫌悪だった。
振り返ると、彼女はまだ雨宿りをしながら寒そうに腕を抱えていた。和也はもう一度戻る勇気も出せず、そのままうつむいて歩き出した。 「また何もできなかった」 その言葉が、雨音にかき消されながら心の中でリフレインしていた。
アパートに戻り、濡れたスーツを脱いでハンガーにかける。玄関に置いた革靴からは、湿った不快な匂いが漂っていた。 誰もいない静かなワンルームの部屋。聞こえるのは、窓を叩く激しい雨の音だけだった。 和也はシャワーを浴び、簡単な夕食を済ませると、ベッドの上に大の字になって天井を見つめた。
今年で35歳になった。公務員としての仕事は真面目にこなしてきたし、市民からの信頼もある。しかし、プライベートの履歴書は真っ白だった。これまで女性とまともに付き合ったことがない。かつては「いつか自然に出会いがあるだろう」と楽観視していたが、三十を過ぎ、気づけば周りは誰もいなくなっていた。 自分の何が悪いのかは分かっていた。先ほどの駅前のように、いつも傷つくことを恐れて、自分から関わろうとしなかったのだ。「傷つかないための壁」を自分の周りに高く積み上げ、その内側で「1人が気楽だから」と自分に嘘をつき続けてきた。
しかし、先ほどの女性の困った顔と、何もできなかった自分の情けない後ろ姿が頭から離れなかった。 「このままでいいわけがない」 胸の奥から、乾いた叫びのような、強い感情が湧き上がってきた。35年間、ずっと逃げ続けてきた。もし今、ここで立ち上がらなければ、自分は一生この薄暗い部屋で、1人で雨音を聞きながら年老いていくのだろう。
和也は起き上がり、棚からスマートフォンを手に取った。 以前、同僚たちが雑談で話していたマッチングアプリの名前を思い出す。検索窓にその名前を入力すると、青いアイコンのアプリが表示された。 「インストール」のボタンをタッチする。指先が微かに震えていた。ダウンロードを示すバーがゆっくりと伸びていくのを、和也は生唾を呑みながら見つめていた。
アプリが起動し、個人情報の入力と本人確認を進める。そして、プロフィールの作成画面に至った。 嘘で塗り固めた自分を作るのはやめようと決めていた。もしその不器用さを嫌う人がいるなら、それは仕方のないことだ。ありのままの自分を受け入れてくれる人とだけ、出会えればいい。
和也は、ゆっくりと言葉を選びながら自己紹介文を打ち込んでいった。
『はじめまして。都内で地方公務員として働いている和也と申します。今年で35歳になります。これまで仕事一筋で過ごしてきたこともあり、お恥ずかしい話ですが、女性とお付き合いをした経験がありません。そのため、人一倍不器用で、気の利いたデートコースなども提案できないかもしれません。それでも、お互いの価値観を大切にしながら、誠実に、ゆっくりと関係を築いていけたらと思っています。休日は美術館に行ったり、静かな公園を散歩したりするのが好きです。こんな私ですが、よろしくお願いいたします』
「付き合った経験がない」という一文を入力するとき、確かに迷いがあった。男としてのプライドが、それを隠せと囁いていた。しかし、送信ボタンを押した瞬間、不思議と胸が軽くなるのを感じた。自分の弱さを認めることで、ようやくスタートラインに立てたような気がしたのだ。
数日後、アプリを通じて1人の女性とマッチングした。彼女の名前は「恵」。同い年の35歳で、プロフィールには「お互いに自然体でいられるような、誠実な方と出会いたいです」と書かれていた。
恵から届いた最初のメッセージには、こう書かれていた。
『和也さん、マッチングありがとうございます。和也さんのプロフィールを読んで、とてもまっすぐで、嘘のない方だなと惹かれました。実は私も、仕事ばかりで恋愛から長く遠ざかっていたので、和也さんのメッセージを見て少し安心しました。私も散歩が好きなので、もしよければ色々お話しさせてください』
窓の外を見ると、数日前までの梅雨空が嘘のように晴れ渡り、夏の気配を感じる青空が広がっていた。 和也の頬を、静かな涙が伝い落ちた。それは自己嫌悪の涙ではなく、自分の不器用な1歩が、誰かに届いたという感動の涙だった。
駅前で、見知らぬ誰かに傘を差し出すことはできなかった。自分にはまだ、その勇気はなかったかもしれない。 けれど、自分の部屋で、震える指でスマートフォンの画面を開き、人生を変えるためのボタンを押すことはできた。 その小さな勇気が、確かに彼の世界を新しく塗り替え始めていた。和也は恵への返信を打ちながら、あの日降っていた激しい雨が、自分の人生のスタートラインを洗い流してくれたのだと感じていた。
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