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はじまりの季節 — 第2話

はじめてのふたりの休日

7分

主人公: 36歳 / メーカー勤務

日常幸せ付き合った後

カーテンの隙間から差し込む朝の光が、寝室のフローリングに白い帯を描いていた。 達也はゆっくりと目を覚ました。いつもなら枕元のスマートフォンが鳴らす無機質なアラーム音で跳ね起きるのだが、今朝は違った。隣から、衣服が擦れるような、ごく小さな微かな気配が伝わってきたからだ。

そっと視線を横に向けると、そこには穏やかな寝息を立てている真美の姿があった。 達也は一瞬、自分が夢を見ているのではないかと錯覚した。三十五歳までの人生で、自分のベッドの隣に誰かが眠っているという光景は一度もなかった。一人で起きて、一人で支度をし、一人で家を出る。それが彼にとっての「当たり前」であり、三十六年間積み重ねてきた日常だった。

真美とは、三ヶ月前にマッチングアプリで出会った。メーカー勤務で地味な生活を送る自分に、こんな素敵な恋人ができるとは夢にも思っていなかった。お互いに本を好むことや、人混みが少し苦手なことなど、共通の空気感に惹かれ合い、一ヶ月前に交際をスタートさせた。昨晩は、彼女の部屋で遅くまで映画を観て、そのまま初めて泊まらせてもらったのだった。

起こさないように慎重にベッドから抜け出し、リビングへと向かう。彼女の部屋は、暖色系の木製家具で統一されており、達也の無機質なワンルームとは違って生活の温もりが感じられた。

少しして、寝室のドアが静かに開き、髪を少し乱した真美が眠たそうに目をこすりながら出てきた。 「あ、達也くん、おはよ……早いね」 「おはよう。ちょっと目が覚めちゃって。喉渇いてない?」 「うん、少し。コーヒー淹れるね」

真美は小さくあくびをしながら、キッチンへと向かった。お気に入りの豆をミルで挽く音が、静かなリビングに響き渡る。やがて、香ばしいコーヒーの匂いが部屋いっぱいに広がっていった。 達也はカウンター越しに彼女の後ろ姿を見つめていた。お湯を細く注ぎながら、丁寧にドリップする真美の手元。その棚には、色違いのマグカップが並んで吊るされている。一つは薄いブルー、もう一つは優しいベージュ。あらかじめ用意されていたかのように、並んでそこに掛かっている二つのカップを見るだけで、達也の胸の奥は言葉にできない感情で満たされた。

「はい、どうぞ」 真美がダイニングテーブルに二つのマグカップを置いた。 「ありがとう。すごくいい匂いだね」 一口飲むと、心地よい苦味と深いコクが口の中に広がった。 「よかった。達也くん、深煎りが好きって言ってたから、少し濃いめにしたんだよ」 真美はそう言って、嬉しそうに微笑んだ。その些細な気遣いが、達也にはたまらなく愛おしかった。

朝食を食べ終えた後、ふたりはリビングのソファに並んで座った。外はよく晴れていたが、どちらからともなく「今日は家でゆっくりしようか」という話になった。 真美は膝にブランケットをかけ、お気に入りのエッセイ本を開いた。達也もまた、持ってきていた小説を取り出し、読み始めた。

部屋の中には、時折ページをめくる音と、時計の針が刻む音だけが静かに流れていた。 会話は一切なかった。普通なら、恋人と一緒にいるときは何か話さなければ沈黙が気まずくなるのではないかと、達也はかつて想像していた。しかし、真美との時間は不思議なほど静かで、それでいて満ち足りていた。 ふと達也が視線を落とすと、ソファの上に置かれた真美の手がすぐ近くにあった。そっと指先を伸ばすと、真美は本から目を離さずに、自然に達也の手を握り返してきた。彼女の手は柔らかく、驚くほど温かかった。

真美がふと本を閉じ、達也の顔を見てクスクスと笑った。 「なに?」 「ううん、達也くん、本を読んでるときすごく真剣な顔をしてるから。バグを探してる時みたい」 「仕事の顔になってたかな。気をつけないと」 「いいよ、その顔も真面目で好き」

そう言って、真美は達也の肩にそっと頭を預けてきた。彼女のシャンプーの甘い香りが鼻腔をくすぐる。達也は胸が締め付けられるような、優しくて切ない感覚に包まれた。

かつての自分は、「三十五歳を過ぎた男が、今さら恋愛なんて滑稽だ」と自分を否定し続けていた。傷つくのが怖くて、一歩を踏み出すことから逃げ、一人の気楽さを言い訳にしていた。 しかし、今、彼の腕の中にいる彼女の温もりは本物だ。

この静かで、何気ない、愛おしい休日の朝は、あの日勇気を出してアプリを開き、不器用な自己紹介文を書き、彼女にメッセージを送らなければ、一生訪れることはなかった。

「真美」 「ん?」 「コーヒー、すごく美味しかった。ありがとう」 真美は少し不思議そうな顔をしながらも、また嬉しそうに微笑んで達也の手を強く握った。三十六歳の休日の朝、達也は自分の人生がようやく新しく始まったのだと、静かに確信していた。